こんなはずではなかった?持続可能な温かい家庭はこの方法で!

現代家族の肖像。会社、あるいは学校や塾で消耗し尽くして家に帰ってくると電灯は消されて暗く静まり返った玄関が迎えてくれます。まるで一人暮らしであるかのような家庭での孤独に対する違和感も消失してしまっているのです。家の中で誰かと言葉を交わすこともなく、ただ明日の準備をして寝床に向かう毎日とそれを平常と考える感性は、家庭の機能をただ夜に時間を過ごすための場所として理解しているのではないでしょうか。

単身赴任、親との別居、そして夫婦共稼ぎといった状況は個々人が望んで出現したものではないはず。押し寄せる社会の要請に応じて耐える便宜だったと思うのです。しかし、その状況が長く続くと慣れてしまってそれがいつものことだと、当たり前のことだと、諦めてしまうことになるのでしょう。今更、このような状態を問題であると言ってみても虚しいだけなのかも知れません。

もはや笑顔で囲む食卓という言葉で具体的なイメージが想起できないのではないでしょうか。家庭を舞台にしたドラマやアニメでは当然のように描かれていたイメージであったはずです。それがいつの間にか色あせた虚構のようなニュアンスで語られるようになってしまったのです。そのような状況が教えてくれるのは、いまは私たちの概念に笑顔が囲む食卓が代表する家庭は存在しないということに他なりません。

祝日、祭日毎に要望された週末家族サービスが家族の失われた時を取り戻す魔力を持っているかのように語られた時代は過ぎ去ってしまいました。観光地は飽きられ、ショッピングや外食に消費される経済力もいつまでも続くものではなかったのです。これらのイベントが家族を一定の方向に駆り立てていたことは事実ですが、それには家族をコミュニティとして再生するだけの地力がなかったのです。

コミュニティの再生には継続性が必要です。イベントによって再生をと考えるならば、継続することができるだけの体力と経済力が必要だったのです。そしてイベントによる家庭再生にはもうひとつ大切な視点が欠けていました。そもそも家庭がコミュニティだとするならば、それは目的志向型ではありえないという考え方です。イベントを利用した時点で家族はコミュニティではなくソサエティとして目的を追求するものとなったのです。

ソサエティは何かの目標を追求する集団です。そこでは役割分担と責任が発生します。誰かがその責任を果たさないなら、その場で目標を失い、集団の目的はなくなってしまうのです。このソサエティとしての性質が家庭として相容れるはずがないではないですか。この事に対する反省は今後の家庭のあり方を模索する場合の大きな指標を提供してくれます。家庭はソサエティであってはならないということです。

家族はコミュニティであり、家庭はコミュニティの場です。そしてこのような家庭のあり方は地域を越えて、時代の変化を通じて絶えず私たちが確保してきた部分であったはずです。ですから家庭を再生する、あるいは活性化するというのであれば、家族をコミュニティとして捉えなければならないはずです。

コミュニティは心情的に結びつく集団です。そしてこのコミュニティを持続可能にするものは、結びつけ合っている心情の強度に他なりません。持続可能な結びつきとしてしのコミュニティは、緩やかな心情が最適なのです。我が夫こそはとか、わが子こそは……などという心情は強すぎることは明確です。それらの心情はあまりにも強過ぎて束縛してしまいます。

緩やかな心情的結びつきによる家庭こそが、持続可能な温かい家庭を実現できる基本スタイルだということを理解しましょう。日々の応答を緩やかに継続するのであれば、それは確かに持続可能な家庭となっていくということなのです。

子どものために?お父さんとお母さんができることを再確認しよう

「あなたのためだから……」という言葉は暴力的です。何故なら、「あなた」には自分で自分の利益を考える余地がないことを断じているからです。自分が誰かにそのように言われたことを考えれば、他の人に自分のことがどうしてわかるの?と疑問に感じるのではないでしょうか。物理的な暴力はあれこれと取りざたされることが多いのですが、実は身近な人間関係では、このような人格的暴力が横行しているのです。

自分のことを自分で決める、ということは基本的人格の領域です。今日の昼食に、夕食に何が食べたいのか、から始まって、今日着ていく洋服の選択などを含めて生活の様々な決定事項はほぼ、基本的人格の領域の問題に含まれるはずなのです。もちろん、何が基本的人格の領域かは社会と文化が決定することであるともいえますから、世界共通の概念として提示できることではありません。

アメリカに滞在すると、何を飲むのかホストファミリーが毎朝聞いてきました。クリームは入れるか、砂糖はどうするのかなどなど……。コーヒーを一杯依頼するために多くのことを質問され、その全てに応答する必要があったことが印象に強く残っています。それは確かに面倒なことだとも言えるのですが、自分で決定することが許されていることに出会う度毎に自分の存在が容認されているという感じを得ることになりました。

自分が自分であることを周囲が容認してくれている、という感覚は大変重要です。この感覚を得るために人間は過大な努力も惜しまず精進するということすらありえます。しかし、日本でそのような感覚を得ることはまれではないでしょうか。統計的に数字を上げることはできませんが、そのような感覚を充分に得ていると感じておられる人にお会いした経験もまたあまりないように思うのです。

それは決して賞賛のことではありません。容認の感覚はもっと日常的なものなのです。だからこそ容認の感覚は家庭や周囲の身近な人間関係に於いて充分満たされる必要のあるものだといえます。食事のときに、料理を容認することと料理人であるお母さんを、奥さんを容認する言葉を発しているでしょうか?おいしいよという言葉は日常における容認の代表的言葉なのです。

いちいち言わなくてもわかっているはずだという意見が聞こえてきそうです。たとえその通りにわかっていても容認はその都度確認される必要があることなのです。そしてその確認ができないことは欲求不満に直結することを知っておく必要があるでしょう。奥さん、お母さんと、旦那さん、お父さんとの関係は一番距離が近い関係のはずです。その大切な関係で確認行為ができているでしょうか?

容認の確認は応答の基本です。そしてコミュニケーションの基本的意味のひとつです。コミュニケーションのことを日本では系統的に学ぶ機会がありませんでした。それでも社会の現状はコミュニケーション能力を要求しています。このような状況で日本式コミュニケーションに固執していることは無謀な試みになりかねません。日本式コミュニケーションの試みに失敗した時の代償は大きすぎるからです。

家庭内で子どもたちの存在を前提したとき、あるいは未だ子どもたちの存在を前提しなくてもよい時期であっても、夫婦間でコミュニケーションを確立して確認をし続けることができるようになることが大切なコツになってくるのです。安心・安全という環境で人格的な必要に充足する必要が、成長のために必須です。充足しないで成長を求める行為を修行と呼びますが、日常生活の基盤が修行になってはならないでしょう。

夫婦間のコミュニケーションが日々応答の確認行為となり、互いに容認のメッセージを出せているかを確認してみましょう。それは決して難しいことではないはずです。

お父さんが子供たちのためにすべき最も大切な仕事はこれだった!

お父さんは元気で留守が良い。古典的な家庭観に基づいた父親像は、権威の中心を演じていて、その様子は大黒柱とも呼ばれて日本人には良く知られていました。そのような父親像が成立しなくなって、父権の復活などを求めた意見が飛び交う中、かつてのコマーシャルで用いられたフレーズはもはや父親の権威を復元する可能性がないということを決定づけたようにも思えます。

しかし、よく考えてみれば「留守が良い」ということはやはり家庭内の主権者が母親であることを宣言しているのでして、この点に関して言えば従来の日本的な封建主義を踏襲した見解であったわけです。日本的な権威主義を柱とした家庭内での父親の立場をこそ問題にすべきだと指摘していたと理解することもできるでしょう。そしてそのことは子どもを家庭内に迎える以前、夫婦が二人の時から、不変の要求なのです。

子どもを出産する前に整えておく必要があったのは、家庭内の秩序の基礎であるということができます。何かのルールを家庭に持ち込んで、夫婦が揃ってそのルールに準じた生活を建設することではありません。そんなことをすれば、ルールの決定者を争うことになるでしょう。そもそも全く違うルールの下で育ってきた人間がひとつの生活を共有するのですから、そのルールを誰が決めるのかという決定戦になってしまうのです。

社会の複雑なルールに取り巻かれた家庭内で日本的「当然」は無効です。ルールを決める基礎とはコミュニケーションの確立なのです。さらに細かく説明すれば、生活の各局面で確立されるべき応答の束だといえるでしょう。この応答の束としてのコミュニケーションが充分に確保されていれば、関係は安全・安心な状態になります。そして安全・安心な状態があって初めて、何かを構築することができるのです。

この安定したコミュニケーションの確立のために率先できる性こそ、男性であると期待します。もちろん女性が率先しても問題はありません。ここではお父さんの仕事として問題化するために、男性であることを期待しています。つまりコミュニケーションの確立をリードできることが家庭内での新しい生活を組み立てる時の柱になるということなのです。この家庭生活の柱という役割こそが、お父さんに求められる最も大切な仕事なのです。

お父さんの仕事は家庭内の秩序を示すこと。ですから、お父さんは柱として機能できれば、後はその柱を中心にして、その周囲に様々な家庭の事情を配置することができるのです。そのひとつとしてあげておく必要があることが、子どもの養育ということになるでしょう。子どもの成長家庭において家庭空間に示されている父親の存在意義は、子どもが世界を理解するための重要な基盤になることが知られています。

子どものため……という合い言葉は今でも有効でしょうか?子どものためだからという合い言葉で夫婦が一致してなんとか問題を解決しようと健闘するイメージがあります。しかし、それは入園する幼稚園のグレードのことでも、所属する進学塾のことでもないはずです。お父さんが子どもたちのためにしなければならない最も大切なことは、子どもたちのお母さんと忍耐、赦し、尊敬を尽くして接することなのです。

女性はこの3つをもって接してもらえるとき、生きいきと応答することができるのです。この3つが安心・安全を約束しているからに他なりません。忍耐はお父さんにとっては自制ですからお母さんに言うことではないでしょう。しかし、後の二つはお母さんに示す必要があります。今まで不十分であったと同意できるなら、今日から具体的に示してみましょう。長くはかからないことですから、変化が生じるまで忍耐することです。

子どもが…?でも試してみたいアイデア秘中の秘を知ってますか

家庭内の問題には様々あるのですが、その中でもっとも大きな問題は家庭内暴力ではないでしょうか。家庭内暴力は何の前触れもなく始まるものではありません。必ず前兆があります。周囲の大人がそれに気づかないことが問題を大きくしているのです。問題が大きくなってしまってからでは、対処することは当然難しいことになってしまいます。

子どもとのコミュニケーションは健全ですか?これが一番最初の徴候を把握するための質問です。でもどの程度のコミュニケーションを問題にしているのでしょうか。高度なコミュニケーションを試みて破綻するようなことは問題にする事はできません。ここでいっている子どもとのコミュニケーションとは、極めて初級レベルのもののことなのです。つまり、子どもは親の言葉に応答できているかということです。

子どもたちが大人からの発話に対して応答できている間はコミュニケーションは維持されているのです。しかし、言葉をかけた途端、部屋に閉じこもったり会話を途絶したりするようなことがあったときが要注意のタイミングなのです。このような場合、大人がコミュニケーションを誘導して援助をする必要があるでしょう。問いつめる態度は絶対してはならない代表的な働きかけです。

そして、初期対応が効果しないようであれば早急に専門家に相談すべきでしょう。コミュニケーションの途絶は問題を背後に隠している場合が多いのです。子どもの安全を約束するためにはコミュニケーションの途絶が発生した時が最善です。もちろん身体的に疲弊しているときには正常な精神活動は制限されますからコミュニケーションに影響が表れるでしょう。それが原因なら充分な睡眠を取ることで回復するはずです。

そこで必要なのはコミュニケーションをどのように誘導することが効果的かということです。それにはアメリカのセールスマンたちが戸別訪問販売する時のノウハウが大変参考になるはずです。まず、出来る限り小さな協力を依頼して肯定的な反応を誘うのです。セールスマンであれば、ドアを少しだけ開けてもらうなどという行為を依頼するのですが、このアプローチに相当することです。

男の子であれば、ジャム瓶のフタを開けてもらう程度の依頼は効果的かも知れません。最初の小さな肯定的反応で次の肯定的反応を誘導できます。次も同じように小さな依頼を繰り返します。テレビのリモコンの場所がわからないから見つけて欲しい。とか……。すると徐々に肯定的反応をする準備が整います。頃合いを見計らって、少し話をしたいのだけど、と相手に判断を任せる形で依頼をしてみましょう。

これまでの誘導が上手く行っていれば、上首尾に終るはずです。そして子どもたちの言い分の中から、特に感情の部分を拾うようにします。事態がどうであれ、感情に関しては肯定的に応じてあげることはできるはずです。ここが大きなポイントです。感情に対して肯定的に応答されるとき、人間はコミュニケーションを途絶できないのです。その行為は自分から危険に身を置く選択をすることになるのですから。

「今日は散々な目に合った……」このような主張に対して私たち大人としては、そのような事態を避けるための知恵のひとつでも教授したくなるものですが、ここはグッと我慢のしどころです。散々な目に合った時にどのように感じますか?これに対する答えが応答に用いるべき言葉になります。例えば、「大変だったのね」のような感じになるでしょうか。一旦、感情を受けてから、話題を次に進めると会話は順調に進むのです。

実はコミュニケーションはその時その場の舞台設定が大変重要な役割を果たします。その準備に細心の注意を払うことで良好なコミュニケーションを誘導することができるのです。

今日はじめられる。コミュニケーションを取り戻すとっておき

家庭には会話と笑顔はありますか?この質問にいったいどれくらいの家族の肯定的な答えを期待することができるでしょう。たまにはと食卓を家族全員で囲んでも、皆の視線の先にはテレビ。食卓に響くのはその音声だけという情景が問題だと騒がれるようになってからもうどれくらいの年月が経ったことでしょう。最近はさらに子どもたちの眼差しが手元のスマートフォンに向けられるようになったことが大きな変化でしょうか。

大学のサークル生たちとファミリーレストランでお茶を飲んで会話をしようとしていても、そのような家庭の状況を充分に推察することができました。彼らは一様に手元にスマートフォンを置き、会話の合間に、自分以外の誰かが発話している時には、そのスマートフォンを覗き込んで何かの操作をしています。私たちが子どもの頃に仕付けられた礼儀なんかはもはや通用するはずもないのでしょう。

しかし、驚くべきことには彼らの会話はきっちりコンテキストを形成するのです。つまりこちらの発話に耳を傾けて内容をしっかり把握できているのです。これには本当に驚きました。彼らは二つの全く異なる作業をこなしているようなのです。しかし、彼らとネットで会話をしている時にその謎が氷解しました。彼らのネットでの会話がコンテキスト不明になっていただけです。

彼らはつまり対面した状態での会話に不慣れなのではないでしょうか。そういえば、子どもの頃に大人たちから視線を置く位置についてとやかく言われて困惑した覚えがあります。個人的経験によれば人によって見られていると感じる場所が違っていたようです。子どもとしては相当困惑してしまい、しばらくは人の顔を見て話ができなくなった経験は彼らの心理状態に近いのかもしれないと思います。

彼らの会話の外見には対して気をとめる必要は差し当たりないのです。彼らの関心はしっかりと現場にあるということでしょう。視線がどこかに行っているということで、馴れなければ反応が掴みにくいと感じるだけでしょう。今時の青年たちの身体表現能力だけを問題として責める態度は公平ではありません。私たちも実は自分の身体表現が何を発しているかを正確には理解していないのですから。

先日、彼らのコミュニケーション能力を知る良い機会に恵まれました。サークル活動に問題を感じていて学生たちの自発的な判断が必要であったので、彼らに相談に乗って欲しいことがあると発信したのです。彼らは何のことはなく、相談に乗ってくれました。そして驚くなかれ、彼らはスマートフォンをテーブルに出すこともなく、手に取ることもなかったのです。

そして、私の言葉をしっかり聞き、考え込む時には目線は中空を彷徨っていたのです。彼らの潜在している欲求をどうやら捕まえることができたからのようです。彼らは決してコンプレクスを感じるような学力ではありません。しかし、それでも対人状況では何らかのコンプレクスのストレスに曝されているのです。コンプレクスはストレス状況において攻撃性として表れます。

攻撃が最大の防御であると説いたのは孫子であったと思いますが、人間を含む動物すべての戦略的反応なのでしょう。つまり手負いの状態になっているといえます。そしてそのような状況下でまず避けたいのは自分の話題に他なりません。ということは会話のない家庭の食卓は、コンプレクスのストレス状況下にあるということができるでしょう。何か言うと、みんなが防御姿勢をとることになってしまうのです。

次の機会には「知っていたら教えて欲しいのだけど……」で会話をコンセントします。そしてその場の誰にも関係のない人物を話題にしてみましょう。意外とみんなが乗ってくるはずです。

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変えてみれば実感できる。お父さんとお母さんの役割分担のシカタ

家庭もひとつの社会であるということができます。社会とは公共制度のことではありません。社会とは二人以上の人間の関わりを意味するからです。そして社会では必ず役割が区別され分担されることになります。全員が同じことをしている様子を想像すると滑稽なのがわかるはずです。私たちは本能的に役割分担がないことの愚かさを感じているわけです。

家庭での役割分担とはどのように行なわれているでしょうか。日本の伝統に則って役割が決まったのでしょうか?あるいはパワーバランスで決められたのでしょうか。実際、ほとんどの夫婦間社会においてパワーゲームが行なわれて家庭内での支配権が争われているとアメリカの社会学者が指摘したそうです。もちろん家庭内の役割分担は支配権を持っている人が決めるわけです。

座布団の置き方、衣類のしまい方、歯磨きチューブの絞り方など様々な方法を相手に強制することで具体的な支配権闘争が繰り広げられるのです。基本は自分のやり方に相手を従わせることです。ただこのような勝負事は時の運という要素もかなり含まれるため、全面勝利とは行かず、支配権の分布ができあがってきたりします。他人の家の話であれば、この支配権の分布を楽しむこともできるのですが、自分の家庭だと深刻なことでしょう。

他人事ではありません。その支配権闘争に必ず子どもが巻き込まれます。そして子どもは混乱の中に置かれることになるのです。混乱した支配権は子どもにダブル・バインドと呼ばれる状態をもたらします。ダブル・バインドとは逃れる術のない束縛のことであって、子どもは自分で状況を判断して行動することができなくなってしまうのです。そこで学習したダブル・バインドは子どもの将来に渡って子どもを束縛し続けるのです。

そのようなことになる前に、是非役割分担のシカタをチェックしてみましょう。ひとつひとつ自分の思い通りにならなかった物事を紙に書き出すという方法が簡便でしょう。そしてお父さんとお母さんがそれぞれの項目を突き合わせることで、暗黙に争われた支配権構想は明らかになってくるはずです。どのような項目が挙げられるかを予測することはできませんが、その作業の中でさまざまな事に気づくことができるはずです。

知らない間に強制していた行動。自分がどれだけ相手を束縛していたのか。このようなことに気づくことは稀なことに違いないのです。それらの中には変更する余地があるものが含まれているかも知れません。ほとんどの場合、こだわりがなかったことを見つけることができるはずなのです。そこで家庭内の役割分担のシカタが明らかになっていれば、家庭内の決まり事を変更することができるようになるのです。

結婚して家庭を形成するという行為は、いままでになかった家族文化を創造するという非常にポジティブな意味を見いだすことができます。そしてその創造性を放棄することで簡単に家庭の形成は監獄や墓場にたとえられるような苦痛に姿を変えてしまうのです。社会の機能を創造することは役割分担の変更をすることで実現できます。いままでとパターンを変更してみることなのです。

同時にいままで暗黙に縛ってきた規範が明るみになってくるにちがいありません。無用な規範を放棄して独自につくればよいのです。家族にとって都合が良いルール作りは親密な家庭を作るために大変有効な作業になるでしょう。共同作業がケーキ入刀で終ってしまったのではなかったのです。家庭も文化を宿すからです。家庭は与えられるものではなく共同作業で作り出すものだからです。

わかり合える家庭を目指すなら、お父さんとお母さんがすべきこと

知人の家からお父さんが出て行ってしまったという話をされました。子どもはお母さんのところに残されたといえるでしょうか。子どもは残されたのではありません。取り残されたのです。もはや話をするどころの問題ではなく、お互い弁護士を通してでなくては応じないという徹底抗戦の構えです。こうなってしまっては、コミュニケーションはわかり合える家庭を目指すことに何の役にも立ちません。

男性はしたことが高く評価された時、満足を感じます。なのでお母さんはお父さんの成果を誉めることでお父さんは生き生きしてくるのです。逆に女性は一緒にいることを求められるときに、満足を感じるそうです。お互いがお互いに満足するとき、成長することができるのです。よりよい状態に向かう成長は飢えている状態ではありえません。

男性が感情的に満足を覚えるのは、自分のしたことを高く評価された時です。そしてそれが足りないときわかりやすい反応を示すのです。その反応によって何を高く評価すればよいか、お母さんはまるわかりになるはずなのです。それはお父さんの自慢話なのでした。お父さんの自慢話の中で、お父さんがしたことを取り上げて話題をふくらませてみましょう。お父さんの目が輝くにちがいありません。

わかり合える家庭とは、つまりお互いの感情の状態と変化をフォローし合い支援し合える家庭に他なりません。私たちが言う満足とは極めて感情の問題であって、わかるという感覚も論理ではないからです。論理的に全く理解できなくてもわかったという感覚は得られるのであって、それで問題が生じないことがほとんどだということなのです。

このことにできるだけ早く気づき対応できた夫婦は幸せです。ほとんどの夫婦関係のもつれは感情のもつれに起因している事実があります。お互いに感情を無視する、障らないようにすることは大人の態度ではありません。相手の感情を大切にして、かかわり合うことこそが大人な態度だといえるでしょう。そしてこの大人な態度を互いに維持することがお父さんとお母さんがすべきことなのです。

コミュニケーションは相互関係です。ですから一方通行の行動では成り立ちません。一方的にお父さんが働きかけるだけでは応答は成立しませんし、一方的にお母さんが言い分を述べるのでも応答は成立しないのです。どちらもが相手のことばを受けて、応答するとき初めてコミュニケーションが成立することになります。そのコミュニケーションは一日でできるようなものではなく、一瞬で破綻するはかないものなのです。

ということは一発大勝負に打って出るようなコミュニケーションは避けなければならないのです。むしろ小さな、そしてささいな事を話題にした応答を繰り返してコミュニケーションを成立させることに熟達することが求められます。そしてお父さんとお母さんの間に成立している安定的なコミュニケーションこそがわかり合える家庭を実現するのです。

そのような安定したコミュニケーションを維持できる家庭であれば、子どもたちは安全に満足することができます。わかり合っている両親のもとに育つ子どもとは本当に幸せなことでしょう。コミュニケーションが安定しているならば、そのコミュニケーションに子どもが参加することは極めて容易です。ただ両親のマネをすることで、観察学習することで、コミュニケーションのルールを身に付けることができるからです。

自らの感情を客観視し、言語化することで周囲に相談する能力を獲得できたなら、子どもの成長にどれだけの貢献になるでしょう。この能力を家庭以外で学ぶのは大変な労力と苦労が避けられません。失敗をすることに直接的な痛みが伴うのです。お父さんとお母さんだからこそできることだといえるでしょう。

とっても簡単!本当はコミュニケーションとは応答の繰返しだった

コミュニケーションには様々な技術が開発されており、多くの技術書が出版されています。それらの技術書を読むことには実に大変な労力を要します。それぞれがほぼ専門書に近い内容であることはハードルのひとつに違いありませんが、同時に専門書の性格から全く違うことがコミュニケーションについて語られているように見えてしまうので勉強するほど混乱してしまう可能性もあるのです。

コミュニケーションのすべてを活用し尽くすのでなければ、コミュニケーションは破綻すると脅かされないようにしましょう。コミュニケーションはすべての人間に共通した営みなのです。意識していようが、意識していなかろうが私たちはみんながコミュニケーションをしながら暮らしています。ある違いはコミュニケーションが上手か下手かの程度の違いに過ぎません。

確かにコミュニケーションの技術を向上すれば、いろいろな人との関わりが潤滑に進むでしょう。しかし、コミュニケーションの範囲は広大です。卓球等の二人以上で行なうゲームもコミュニケーションの範疇に入りますし、武術であってもそれはコミュニケーションの上に成立した交渉なのです。なのでコミュニケーションのすべてに熟達すると言うことは果てしない夢を見ているのとあまり違わないことになってしまいます。

それよりも、簡単な原則を毎日繰り返して確認・学習することでひとつのパターンに熟達することをお薦めしたいのです。この方が遥かに有益なのは説明をまたないでしょう。繰り返すことで効果を確認できることには大きな意味があるのです。学習の度毎に報酬が受け取れることと同じだからです。コミュニケーションの成功時にある報酬は、わかり合えたという実感です。

その方法とは、感情焦点型おうむ返し法です。具体的にはこのように行なわれるでしょう。
[お父さん]ただいま〜。
[お母さん]お帰りぃ〜。帰り道は大変だった?
[お父さん]そろそろ暑くなってきたからなぁ、それなりに帰りの電車が大変だった。
[お母さん]そうなの、暑いと電車通勤も大変よね。
簡単なやりとりですが、お互いが掛け合っている言葉が応答していることが重要なのです。単純に相手のいった台詞をおうむ返しにしてはいけません。相手の言葉を受けるのです。お父さんが言った、帰りの電車が大変だったという言葉が、お母さんによって変形されて同じことを表現している(つまりおうむ返し)になっています。

日常の言葉の掛け合いからコミュニケーションにする時のメリットは、ラポールという手続きを省くことができる点にあるかも知れません。本来コミュニケーションを図るといった場合、必ずラポールという信頼関係を形成することが前提として求められます。しかし、家族間でのコミュニケーションでは基本的に信頼関係が維持されていることを前提することができるわけです。

会話によるコミュニケーションは続けられます。
[お母さん]だったら食事の前にお風呂にします?
[お父さん]そうだね。お風呂ならさっぱりできるね。でもお腹が空いているから食事がしたいな。
ここにも注目すべきポイントがあります。お母さんはお父さんの行動パターンを決めつけていません。その時の気分でお父さんが行動を自分で選択できる可能性を示唆しているのです。そしてお父さんは「そうだね」とお母さんの提案を肯定的に受けていることを忘れてはならないのです。

自分の主張が相手の主張と拮抗してしまうことはたたあるでしょう。しかし、相手の主張を否定することから会話を継続しコミュニケーションを良好に保つことはできません。相手のいい分をしっかりと受け止めてから、自分の判断と根拠を明確に提示するように心がけたいものです。

【チャート式】子どもが口をきいてくれない?その傾向と対策とは

子どもたちが口をきいてくれないということはストレスを受けている反応に他なりません。何からストレスを受けているかをしっかりと見極めてあげたいものです。特に家庭外の活動が盛んになる年頃になれば、外で受けたストレスを上手に処理することができないで、そのまま引きずってしまうことも多くなるはずです。そんな時の基本的態度は無視するのではなく、狼狽えず、いつも軽い声かけを続けることに尽きます。

小学校高学年には自我を意識しはじめるのが普通です。自分以外を意識できるようになってきた証拠ですが、同時にそれらすべてからストレスを受けることになるのです。恐らく自分がストレス状態であることすら意識することは困難であるに違いありません。それゆえ奇異な行動を取ることも多く、親としてはどのように扱うべきかに頭を抱えることも多いようです。

小学校高学年頃の反抗期は自我の発達による途中変化です。口をきいてくれないのではなく、口をきけないということが本当のところ。むしろ、健全な状態を示しているのですから静かに見守ってあげることが大切です。ただ、外の学校生活で何らかの問題に巻き込まれていないかをしっかりと把握できるように注意して観察し続けることは親の重要な役割りでしょう。

思春期の子どもにありがちなのは、受験準備に対するストレスからくる反抗期。日本を含むアジアの大学入試制度は子どもたちに必要以上のストレスを与えているという研究結果が出ています。一度の受験で勝敗を決するのですからそれに対するストレスは甚大なのです。そのストレスが実はクラスでのいじめに繋がっているということも先進国では指摘されたことがあります。

勉強に対する応援のつもりで、ガンバレなどと言ってしまうのは火に油を注ぐようにストレスを増し加えるようなものなので控えましょう。ストレスを受けている状態だと味覚も影響を受け味に対して鈍感になることから、食事も偏る傾向が出たりします。そんな時も無理強いすることはしなしほうがよいでしょう。食欲が減退しているようであれば、少し甘いものを調整してあげるのも良いストレスに対する処方になります。

子どもはストレスに対してどのように対処すれば良いのかを未だしっかりと理解できていないのです。特に家庭の中での家族関係と他の人間関係との距離をどうはかるべきかについて学習の最中だということができます。その意味では様々なコミュニケーションのパターンを試みている真っ最中だということができるでしょう。そのような子どものクライシスに至る前に事前に家庭内で準備できていれば、遥かに対応は易しくなったでしょう。

今からできるコミュニケーションの調整方法として、コミュニケーションの基本をしっかり踏まえたコミュニケーションを子どもの前で維持しておくことが大切です。そして安定したコミュニケーションの連鎖の中に子どもを招くようにしましょう。そもそもがコミュニケーションが成立していない状態では、いざと言う時に家族が連携して問題に対処することは難しくなるものだからです。

感情に焦点を当てたコミュニケーションのパターンは応用範囲が広く、精神安定に寄与することができるツールとして有益です。そのコミュニケーションの応答は参加する人たちの精神を安定させることが期待できます。そして安定した精神状態で問題に対処する能力を発揮することができるようになるでしょう。子どもたちが学校で、家庭の外で受けた感情の影響を家庭で理解できることに直結するからです。

お父さんとお母さんがコミュニケーションすれば子どもは安定する

コミュニケーションが取れた時って、ほっとしませんか?そうなんです。コミュニケーションの最も重要な効能は安心できるということにつきます。このことを逆にすると、誰かと話をしていてほっとできるときっていうのはコミュニケーションが取れた時なのです。私たちはいつでも安心したい・安全でいたいという欲求に付きまとわれているのです。マズローという心理学者は人間の欲求の一番初源に安全に対する欲求を上げています。

青年期においては強いストレスが強い自己を形成する一助となることもありますが、基本的に私たちは強いストレスに対して抵抗し続けることは不得意なのです。アドレナリンを分泌し身体は戦闘態勢に入ります。血流を抑え込み攻撃に備えます。視野が狭くなり、多量の情報を処理できなくなります。これらはストレスに対抗するために、人間の生命機能にプログラムされているので自動的に発現しているのです。

このストレスに対する抵抗プログラムは生まれながらにして備えていて、たとえ赤ん坊であっても発動するようになっています。そして保護を求めて、言い換えれば安全・安心な状況を得るために、鳴き声を上げているのです。そのような強度のストレスに曝されている子どもは赤ん坊だけではありません。言葉を話すようになった子どもであってもストレスに対してきっちり反応するのです。ただ発する信号に違いが出てくきます。

家庭にある子どもが不安定になってしまうことがあります。多いのはいわゆる夜泣き。昼夜の時間帯を学習する乳児期を過ぎても夜中に泣き出す夜泣き。これは両親を疲労困憊させてしまうほどのストレスをもたらします。その現場に発現しているのはストレスのキャッチボールだと言えるでしょう。子どものストレスが親のストレスに連鎖し、また親のストレスは子どもに伝播することになります。

ストレスは伝播し、周囲の人間を巻き込んでしまいます。満員電車の中にイライラした人が一人乗り込んでくると、その車両全体が緊張感に包まれてしまうことを経験しますが、それもストレスの伝播の一例だといえるでしょう。あるいは後ろに立っている人がチッチッチッと舌を打つ音が聞こえてきた瞬間、私たちのストレスはピークを見ます。でもストレスに曝されているのは後ろの人であるはずです。ストレスが伝播しているのです。

ストレスの発現は構成員の中で最も弱い人に見られます。ストレスがかかっている状況は、一種の我慢大会になっていますから、ストレスを発信しないで耐えることができない人に表れてくるのです。家庭の中で最もストレス耐性が低いのが子どもですから、家庭にかかっているストレスは子どもに発現するのが通常だと言われるのです。

ですから受けているストレスを発現している子どもに対して直接的なアプローチに現象を抑える効果はありません。家庭にかかっているストレスがどの経路を辿って伝播しているかを考える必要があるのです。つまり子どもにストレスを伝播した元は誰かということでしょう。それは言うまでもなく母親なのです。母親が生活空間のなかで不安を覚えているとき、ストレスを発信しなくても、ストレスは子どもに伝播してしまいます。

ですから、子どもが不安定になっている場合、アプローチする相手はその子の母親だということができるでしょう。そして母親が不安定になっている原因を探ります。人間の構造においてストレスに対抗する安心と安全を提供できるのはコミュニケーションでした。即ち、お父さんとお母さんがコミュニケーションできているかを確認することが先決問題になるのです。子どもの問題もまずはお父さんお母さんなのですね。