子どものために?お父さんとお母さんができることを再確認しよう

「あなたのためだから……」という言葉は暴力的です。何故なら、「あなた」には自分で自分の利益を考える余地がないことを断じているからです。自分が誰かにそのように言われたことを考えれば、他の人に自分のことがどうしてわかるの?と疑問に感じるのではないでしょうか。物理的な暴力はあれこれと取りざたされることが多いのですが、実は身近な人間関係では、このような人格的暴力が横行しているのです。

自分のことを自分で決める、ということは基本的人格の領域です。今日の昼食に、夕食に何が食べたいのか、から始まって、今日着ていく洋服の選択などを含めて生活の様々な決定事項はほぼ、基本的人格の領域の問題に含まれるはずなのです。もちろん、何が基本的人格の領域かは社会と文化が決定することであるともいえますから、世界共通の概念として提示できることではありません。

アメリカに滞在すると、何を飲むのかホストファミリーが毎朝聞いてきました。クリームは入れるか、砂糖はどうするのかなどなど……。コーヒーを一杯依頼するために多くのことを質問され、その全てに応答する必要があったことが印象に強く残っています。それは確かに面倒なことだとも言えるのですが、自分で決定することが許されていることに出会う度毎に自分の存在が容認されているという感じを得ることになりました。

自分が自分であることを周囲が容認してくれている、という感覚は大変重要です。この感覚を得るために人間は過大な努力も惜しまず精進するということすらありえます。しかし、日本でそのような感覚を得ることはまれではないでしょうか。統計的に数字を上げることはできませんが、そのような感覚を充分に得ていると感じておられる人にお会いした経験もまたあまりないように思うのです。

それは決して賞賛のことではありません。容認の感覚はもっと日常的なものなのです。だからこそ容認の感覚は家庭や周囲の身近な人間関係に於いて充分満たされる必要のあるものだといえます。食事のときに、料理を容認することと料理人であるお母さんを、奥さんを容認する言葉を発しているでしょうか?おいしいよという言葉は日常における容認の代表的言葉なのです。

いちいち言わなくてもわかっているはずだという意見が聞こえてきそうです。たとえその通りにわかっていても容認はその都度確認される必要があることなのです。そしてその確認ができないことは欲求不満に直結することを知っておく必要があるでしょう。奥さん、お母さんと、旦那さん、お父さんとの関係は一番距離が近い関係のはずです。その大切な関係で確認行為ができているでしょうか?

容認の確認は応答の基本です。そしてコミュニケーションの基本的意味のひとつです。コミュニケーションのことを日本では系統的に学ぶ機会がありませんでした。それでも社会の現状はコミュニケーション能力を要求しています。このような状況で日本式コミュニケーションに固執していることは無謀な試みになりかねません。日本式コミュニケーションの試みに失敗した時の代償は大きすぎるからです。

家庭内で子どもたちの存在を前提したとき、あるいは未だ子どもたちの存在を前提しなくてもよい時期であっても、夫婦間でコミュニケーションを確立して確認をし続けることができるようになることが大切なコツになってくるのです。安心・安全という環境で人格的な必要に充足する必要が、成長のために必須です。充足しないで成長を求める行為を修行と呼びますが、日常生活の基盤が修行になってはならないでしょう。

夫婦間のコミュニケーションが日々応答の確認行為となり、互いに容認のメッセージを出せているかを確認してみましょう。それは決して難しいことではないはずです。