こんなはずではなかった?持続可能な温かい家庭はこの方法で!

現代家族の肖像。会社、あるいは学校や塾で消耗し尽くして家に帰ってくると電灯は消されて暗く静まり返った玄関が迎えてくれます。まるで一人暮らしであるかのような家庭での孤独に対する違和感も消失してしまっているのです。家の中で誰かと言葉を交わすこともなく、ただ明日の準備をして寝床に向かう毎日とそれを平常と考える感性は、家庭の機能をただ夜に時間を過ごすための場所として理解しているのではないでしょうか。

単身赴任、親との別居、そして夫婦共稼ぎといった状況は個々人が望んで出現したものではないはず。押し寄せる社会の要請に応じて耐える便宜だったと思うのです。しかし、その状況が長く続くと慣れてしまってそれがいつものことだと、当たり前のことだと、諦めてしまうことになるのでしょう。今更、このような状態を問題であると言ってみても虚しいだけなのかも知れません。

もはや笑顔で囲む食卓という言葉で具体的なイメージが想起できないのではないでしょうか。家庭を舞台にしたドラマやアニメでは当然のように描かれていたイメージであったはずです。それがいつの間にか色あせた虚構のようなニュアンスで語られるようになってしまったのです。そのような状況が教えてくれるのは、いまは私たちの概念に笑顔が囲む食卓が代表する家庭は存在しないということに他なりません。

祝日、祭日毎に要望された週末家族サービスが家族の失われた時を取り戻す魔力を持っているかのように語られた時代は過ぎ去ってしまいました。観光地は飽きられ、ショッピングや外食に消費される経済力もいつまでも続くものではなかったのです。これらのイベントが家族を一定の方向に駆り立てていたことは事実ですが、それには家族をコミュニティとして再生するだけの地力がなかったのです。

コミュニティの再生には継続性が必要です。イベントによって再生をと考えるならば、継続することができるだけの体力と経済力が必要だったのです。そしてイベントによる家庭再生にはもうひとつ大切な視点が欠けていました。そもそも家庭がコミュニティだとするならば、それは目的志向型ではありえないという考え方です。イベントを利用した時点で家族はコミュニティではなくソサエティとして目的を追求するものとなったのです。

ソサエティは何かの目標を追求する集団です。そこでは役割分担と責任が発生します。誰かがその責任を果たさないなら、その場で目標を失い、集団の目的はなくなってしまうのです。このソサエティとしての性質が家庭として相容れるはずがないではないですか。この事に対する反省は今後の家庭のあり方を模索する場合の大きな指標を提供してくれます。家庭はソサエティであってはならないということです。

家族はコミュニティであり、家庭はコミュニティの場です。そしてこのような家庭のあり方は地域を越えて、時代の変化を通じて絶えず私たちが確保してきた部分であったはずです。ですから家庭を再生する、あるいは活性化するというのであれば、家族をコミュニティとして捉えなければならないはずです。

コミュニティは心情的に結びつく集団です。そしてこのコミュニティを持続可能にするものは、結びつけ合っている心情の強度に他なりません。持続可能な結びつきとしてしのコミュニティは、緩やかな心情が最適なのです。我が夫こそはとか、わが子こそは……などという心情は強すぎることは明確です。それらの心情はあまりにも強過ぎて束縛してしまいます。

緩やかな心情的結びつきによる家庭こそが、持続可能な温かい家庭を実現できる基本スタイルだということを理解しましょう。日々の応答を緩やかに継続するのであれば、それは確かに持続可能な家庭となっていくということなのです。