今日はじめられる。コミュニケーションを取り戻すとっておき

家庭には会話と笑顔はありますか?この質問にいったいどれくらいの家族の肯定的な答えを期待することができるでしょう。たまにはと食卓を家族全員で囲んでも、皆の視線の先にはテレビ。食卓に響くのはその音声だけという情景が問題だと騒がれるようになってからもうどれくらいの年月が経ったことでしょう。最近はさらに子どもたちの眼差しが手元のスマートフォンに向けられるようになったことが大きな変化でしょうか。

大学のサークル生たちとファミリーレストランでお茶を飲んで会話をしようとしていても、そのような家庭の状況を充分に推察することができました。彼らは一様に手元にスマートフォンを置き、会話の合間に、自分以外の誰かが発話している時には、そのスマートフォンを覗き込んで何かの操作をしています。私たちが子どもの頃に仕付けられた礼儀なんかはもはや通用するはずもないのでしょう。

しかし、驚くべきことには彼らの会話はきっちりコンテキストを形成するのです。つまりこちらの発話に耳を傾けて内容をしっかり把握できているのです。これには本当に驚きました。彼らは二つの全く異なる作業をこなしているようなのです。しかし、彼らとネットで会話をしている時にその謎が氷解しました。彼らのネットでの会話がコンテキスト不明になっていただけです。

彼らはつまり対面した状態での会話に不慣れなのではないでしょうか。そういえば、子どもの頃に大人たちから視線を置く位置についてとやかく言われて困惑した覚えがあります。個人的経験によれば人によって見られていると感じる場所が違っていたようです。子どもとしては相当困惑してしまい、しばらくは人の顔を見て話ができなくなった経験は彼らの心理状態に近いのかもしれないと思います。

彼らの会話の外見には対して気をとめる必要は差し当たりないのです。彼らの関心はしっかりと現場にあるということでしょう。視線がどこかに行っているということで、馴れなければ反応が掴みにくいと感じるだけでしょう。今時の青年たちの身体表現能力だけを問題として責める態度は公平ではありません。私たちも実は自分の身体表現が何を発しているかを正確には理解していないのですから。

先日、彼らのコミュニケーション能力を知る良い機会に恵まれました。サークル活動に問題を感じていて学生たちの自発的な判断が必要であったので、彼らに相談に乗って欲しいことがあると発信したのです。彼らは何のことはなく、相談に乗ってくれました。そして驚くなかれ、彼らはスマートフォンをテーブルに出すこともなく、手に取ることもなかったのです。

そして、私の言葉をしっかり聞き、考え込む時には目線は中空を彷徨っていたのです。彼らの潜在している欲求をどうやら捕まえることができたからのようです。彼らは決してコンプレクスを感じるような学力ではありません。しかし、それでも対人状況では何らかのコンプレクスのストレスに曝されているのです。コンプレクスはストレス状況において攻撃性として表れます。

攻撃が最大の防御であると説いたのは孫子であったと思いますが、人間を含む動物すべての戦略的反応なのでしょう。つまり手負いの状態になっているといえます。そしてそのような状況下でまず避けたいのは自分の話題に他なりません。ということは会話のない家庭の食卓は、コンプレクスのストレス状況下にあるということができるでしょう。何か言うと、みんなが防御姿勢をとることになってしまうのです。

次の機会には「知っていたら教えて欲しいのだけど……」で会話をコンセントします。そしてその場の誰にも関係のない人物を話題にしてみましょう。意外とみんなが乗ってくるはずです。

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