【家庭の必修項目?】初めて明かされるコミュニケーションの秘密

会社でも家庭でも、そして学校でもコミュニケーションについてやかましく語られるようになりました。曰く、コミュニケーション能力が高い、そして低いと。しかしコミュニケーションとは何であるかについて語られる機会はあまり多くありません。むしろ日本ではコミュニケーションが必要とされなかったと言うべきなのでしょう。コミュニケーションが求められるようになったのは本当に最近のことなのです。

万葉集という古い時代の和歌集があります。万葉集は当時の人たちが詠んだ様々な歌を収録していますが、その中には本来の日本人のコミュニケーション感を語ってるかのようなものが少なからずあるようです。あなたと一緒に見たあの花が今年も咲きました……などと歌っているものがそれです。過去において一緒に経験したことを思い出すこと、これが日本的なコミュニケーションの本質だと思うのです。

コミュニケーションという言葉に相当する適当な日本語はありません。このことも日本にもともとなかったものだということを表しいているのです。意思疎通という言葉を通常当てていますが、この言葉も漢語であって日本語、やまと言葉ではないのです。敢えて探してみれば、わかり合うという当たりが近いかも知れません。これらの事実は日本人にとってコミュニケーションが理解の難しいことなのだということでしょう。

万葉集の歌では過去の共通の経験を参照することで、その情景をわかり合います。これがコミュニケーションともなれば、どこにどれだけ、どのように咲いた花が如何に美しいかということを伝えることになるでしょう。つまり日本型のわかり合いは経験の共有であって、コミュニケーションは経験の伝達なのです。コミュニケーションの必要は、経験を共有していないことが前提になるわかり合いが必要だと言い得るかもしれません。

自分だけが経験したことを述べることが基礎的な技術になります。現にアメリカの子どもたちのための作文の授業内容を見ると、自分の経験を表現する訓練が徹底的に繰り返されるのです。コミュニケーションのという言葉と同時に彼らの努力の結果の能力とを一緒にしてしまうと、最もコミュニケーションの能力が低い人は誰かという問いに、お父さん、お母さんという答えが出てきてしまうのです。

食事は西洋化され、衣服も西洋化され、学校制度や会社組織も西洋化され、社会全体の構造が西洋化されました。もはや共有経験をもってわかり合うことには限界が迫ってきているのではないでしょうか。家族旅行はどれくらいの頻度ですれば、わかり合えるでしょうか。同じテレビ番組で盛り上がれるでしょうか。圧倒的に多くの時間を全く違う場所で過ごさなければならないのです。従来の方法ではわかり合うことができないのが当然でしょう。

コミュニケーションは知性の基本として位置づけられています。コミュニケーションなしの知性はあり得ないと説明されます。そのコミュニケーションが成り立つ土台になる部分は、しかし技術ではありません。能力でもありません。それ故に、知性の基礎だとされているのです。コミュニケーションの土台は「応答」です。

「お〜い」と呼ばれて「は?」と答えるなら、応答が成立する可能性が充分にあるのです。その意味ではここからコミュニケーションになっていくこともあるでしょう。ただほとんどの場合、このコミュニケーションは成立しないだろうと推測できるのです。

応答は指向性を持っています。誰に対しての発信と何に対する返事なのかが対応していなければ応答とは呼べないでしょう。「お〜い」に対して「お茶」の応答には普遍性は見られず、限られた状況に於いてのみ成立します。応答が成立すれば、そこからコミュニケーションを育てることができるといえるでしょう。