一人ご飯では生きていけない。お父さんが元気になるためのヒミツ

知り合いからの相談はすでに破局を迎えてからのものでした。せめてもう少し早く相談をしてくれれば、せめてもう少し、アドヴァイスに耳を傾けてくれていればという思いでいっぱいになりました。相談をしてくださったのは中年にかかろうかという女性でした。単身赴任を続けていたご主人が浮気をされていたので離婚を決意したということだったのです。

単身赴任……。現代において決して珍しくない生活パターンでしょう。誰でもが経験しうる状況です。仕事を選べるのであればまだしも、会社の命令に従うための調整を精一杯した結果の単身赴任に違いありません。子どもたちの教育や生活費の負担、その他の社会生活の維持を考えれば他には選択がなかったのかも知れません。そのような状況を誰も責めることはできないはずです。

それは既に家族として、クライシスのひとつとして理解されているのでしょうか。この質問に関して否定的な答えしかないかも知れません。私の友人はこのような状況に対して、「男は本当に仕方がない……」と投げやりなことを言います。しかし、単身赴任という状況の責任をすべて押し付けてしまうような無責任な立場をとっているのは家族として相応しいことでもないでしょう。

東洋医学の考え方では人間は食事によって生きるとみなしません。食事による精によって初めて食事が栄養になり、身体を養えると教えているのです。夜遅く帰宅して、電子レンジで加熱した食事を薄暗い灯りの下で食べるというのであれば、そこには食べ物があっても精があるとはいわないのです。それは空腹を満たすだけの物質であって生命を養い育てるような精がないと言えます。

古来より人間の食事は動物のそれとは違うものであると認識されてきました。これは東洋と西洋とで共通した考え方であるかも知れません。人間はパンのみに生きるのではないということばは誰しも知っているのではないでしょうか。聖書ではこのことばに「神の口から出たひとつひとつの言葉による」と続きます。本来、人間は食事による精を取り込むことで初めて、生命を養い育てることができるのです。

しかし現代的生活に於いて「精」という東洋医学的な言葉は耳に馴染まなくなってしまいました。しかし、この「精」というものが不要になったのではなく、言葉が失われただけなのです。その証左として誰しも体験することはできますし、体験しているはずなのです。お母さんたちはお友達と楽しい食事を求められるでしょうし、お父さんたちも職場の気の合う仲間同士で飲み会という選択をするのではありませんか?

気のおけない仲間との食事。何よりも楽しい食事。これこそが精の伴う食事だということができます。そのような食事なら、同じ料理であってもはるかに美味しく感じることができるということがおわかり頂けると思うのです。「精」は食事の時・場所の雰囲気だと言い換えることもできるかも知れません。東洋医学の専門家はもっとわかりやすい言葉を当てています。「味わい」だと。

家庭での食事も同様です。豪華で立派な食卓によって私たちは養われるのではありません。食卓の雰囲気、「精」によって初めて活力が生まれるのだということなのです。さらに突き詰めてみれば食卓の雰囲気は、誰と食べるのかに還元されることだと言えます。誰と食卓を囲むかが食卓の雰囲気を演出するのであり、食事の味わいを決定しているのだということなのです。

今日は誰と食卓を囲みますか?その食事は楽しいものですか?この質問を自分自身に投げかけることで家族と一緒の食事ができないことへの痛みを思い出せるのではありませんか。家族とともにする食事こそ、家庭における生命の交歓の時と場所なのです。一人の食事では生命は養い育てることができません。