思った以上に簡単。家庭内のコミュニケーションの基本スキル!

現代では至る場で優良なコミュニケーションスキルが求められます。会社では上司に対しての報告・連絡・相談はもちろん、顧客に対するプレゼンテーションやアプローチ。それは学校でも同じことのようで、知り合いの大学生も差し迫った英語でのプレゼンテーション課題に頭を抱えているようでした。コミュニケーションに失敗すれば商談は白紙になり、プレゼンテーションに失敗すれば単位を落とすことになるのです。

これらのコミュニケーションでは罰則が伴い、一発勝負という要素を払拭することができません。しかし何かの技術に熟達するためには必ず、安全で安心な状況下での練習が必要になります。それが家庭の役割だといえるでしょう。家族以上に安心・安全な関係はないはずです。1度や2度のコミュニケーションの失敗が致命傷になることはあり得ないはずですよね。本当にそうあって欲しいと思います。

そこで家庭でのコミュニケーションこそが社会活動(会社での仕事、学校での活動を含む)におけるコミュニケーションの基礎になるというわけです。コミュニケーションには様々な次元があるのは当然です。あるコミュニケーションは何らかの目的を達するために仲間同士での恊働を追求することでしょう。またあるコミュニケーションは教授や同級生に対して何かの研究結果を共有してもらうことが目的になるのです。

そこで家庭でのコミュニケーションの目的を明らかにする必要があると思います。家庭でのコミュニケーションの一番重要な目的は感情の交流にあります。今、テレビの前に座っているお父さんをどのような感情が支配しているかわかりますか?またキッチンに忙しく動き回っているお母さんをどのような気分が支配しているか正確に想像できますか?

これらのことに正解はありません。お父さんに確認する必要があります。そしてお母さんに確認する必要があるのです。よく馴染んだ夫婦であればお互いの気分を即座に推察することができるともいいます。しかし、正解に辿り着けることが大切なのではなく、確認することが大切なのです。お互いの感情を確認し合うことはお互いの安全・安心を確認し合うことになるのです。

感情のコントロールを貴族の義務に数えていたのはかつてのフランスだそうですが、彼らに言わせれば感情のコントロールは最高レベルの知性がなければ不可能なそうで、それほど感情のコントロールは難しいのです。そしてこれほど厄介なものもないといえるでしょう。突然、頭にくることを瞬間湯沸かし器などと揶揄されもしますが、本人であっても事前に予測することもできないのではないでしょうか。

気分が優れず、感情が泡立つとき家族だからこそ助け合える唯一の時間だいうことができます。気分が塞ぎ込んでいる時というのは、どうすれば気分転換ができるのか思いつくことができない状態です。イライラしている時も同様なのです。話しかけてもろくすっぽまともな返事がない。コミュニケーションスキルを向上する絶好のチャンス到来です。感情に焦点を合わせた質問に切り替えましょう。「イライラしてるの?」

自分の陥っている気分を表現して客観視することを「外化」と言います。この時、「イライラしてるの?」という問いかけに対して応答しようとすれば必然的に自分の心の状態を内省することになり、外化することが可能になります。そうでなければ明らかな感情の高ぶりになって制御できなくなって初めて気が付くということになってしまいます。ですから「イライラしてるの?」という語り掛けは相手を支援していることになります。

お互いの感情を宥めるために何ができるでしょうか。このことを一緒に考える時、家庭内のコミュニケーションは始まるのです。

子供が映し出している家庭のパワーバランス。簡単に調整する方法

子どもが不登校になってしまった。という相談が時々あります。話をよく聞いてみれば、お父さんの意見とお母さんの意見とがあまりに違っていることに驚きます。いつから不登校が始まったのかについても意見が分かれているようなのです。

不登校になっている本人である洋子ちゃん(仮名)は、こちらから言葉をかけても反応がありません。目を合わせようともせず、ただ斜め前に視線を落としているだけ。ご両親と本人と私とが座っている小さな部屋はまるで凍り付いたような状況になっているのですが、これでもカウンセリングとすれば、半ば成功している状況なのです。西日がカーテンの隙き間から差し込んでいるこの部屋から不登校の治療は始まったのです。

不登校という現象は子どもからの強烈なメッセージです。当然、それは最終的手段ともいえるメッセージなのであって、子どもという立場から発信できるものとしては最強の部類だという意味です。ですから不登校がいつ始まったのかという時間に焦点を当ててもあまり効果は上がりません。子どもが不登校になるずっと前から不登校へと徐々にエスカレートしてきているといえるのです。

子どもが地団駄を踏んでヒステリックな鳴き声を上げている傍らで冷静な母親が何かを諭そうと試みている様子を電車の中で見かけた記憶はないでしょうか。子どもは親に対してメッセージを投げかけるものです。そのメッセージを親が受け取れないとき、そのメッセージの強度が強くなるのです。その最終形がヒステリックな子どもの鳴き声だといえます。その状況の子どもに対して何かをするということにあまり意味はないでしょう。

それと同様に不登校になってメッセージを出している子どもに対して、不登校そのものを問題視したアプローチには効果が望めません。そのメッセージを受け取ることが必要なのです。ご両親と洋子ちゃん(仮名)のそれぞれの主張を聞いている間、私の頭の中で『やぎさんゆうびん』のメロディーが鳴り続けていたことを思い出します。

子どものメッセージは関心を得たいということが主要です。親が子に対する関心を示すとき、それは子どもにとって安心・安全な環境を意味するのです。子どもでも大人でも安心・安全が生きていく上での最大の問題であることに変わりはありません。子どもにとってはその安心・安全は親からしか得ることができないということなのです。

ですから子どもが安心・安全の確認を求められたときにどれだけ早くそれに気づくことができるか、そしてどれだけ早く応じてあげられるかは子どもの成長に大きく関与するのです。親が子どものメッセージに鈍感だと、子どもは同様にメッセージに対して鈍感になることが期待できます。メッセージに対して反応が鈍いということはそのまま学習機会の喪失です。そして子どもの人間関係にまで影を落とすことになりかねないのです。

さて不登校のメッセージはもはや子どもが関心を得るだけでは足りないほど症状が悪化したことを示しています。なので安全・安心をアプローチしても、いまさら……といった反応しか引き出せないでしょう。子どもにとっての最大の危機に対する恐怖信号が不登校だというと言い過ぎでしょうか。つまり両親の不仲、断絶そして離婚に対する恐怖を感じていることを示しているのです。

そこでお父さんとお母さんに彼女の目の前で夫婦喧嘩を演技してもらいました。実は喧嘩すらできないほど、お父さんとお母さんの関係は冷え込んでいたのです。お互いの価値観のズレを調整する力を失い、二人で全く異なった社会生活を生きようとされていたのでした。するとあら不思議。洋子ちゃん(仮名)は一週間もしない内に学校へと行くようになったと報告を受けることができたのです。

【家庭の必修項目?】初めて明かされるコミュニケーションの秘密

会社でも家庭でも、そして学校でもコミュニケーションについてやかましく語られるようになりました。曰く、コミュニケーション能力が高い、そして低いと。しかしコミュニケーションとは何であるかについて語られる機会はあまり多くありません。むしろ日本ではコミュニケーションが必要とされなかったと言うべきなのでしょう。コミュニケーションが求められるようになったのは本当に最近のことなのです。

万葉集という古い時代の和歌集があります。万葉集は当時の人たちが詠んだ様々な歌を収録していますが、その中には本来の日本人のコミュニケーション感を語ってるかのようなものが少なからずあるようです。あなたと一緒に見たあの花が今年も咲きました……などと歌っているものがそれです。過去において一緒に経験したことを思い出すこと、これが日本的なコミュニケーションの本質だと思うのです。

コミュニケーションという言葉に相当する適当な日本語はありません。このことも日本にもともとなかったものだということを表しいているのです。意思疎通という言葉を通常当てていますが、この言葉も漢語であって日本語、やまと言葉ではないのです。敢えて探してみれば、わかり合うという当たりが近いかも知れません。これらの事実は日本人にとってコミュニケーションが理解の難しいことなのだということでしょう。

万葉集の歌では過去の共通の経験を参照することで、その情景をわかり合います。これがコミュニケーションともなれば、どこにどれだけ、どのように咲いた花が如何に美しいかということを伝えることになるでしょう。つまり日本型のわかり合いは経験の共有であって、コミュニケーションは経験の伝達なのです。コミュニケーションの必要は、経験を共有していないことが前提になるわかり合いが必要だと言い得るかもしれません。

自分だけが経験したことを述べることが基礎的な技術になります。現にアメリカの子どもたちのための作文の授業内容を見ると、自分の経験を表現する訓練が徹底的に繰り返されるのです。コミュニケーションのという言葉と同時に彼らの努力の結果の能力とを一緒にしてしまうと、最もコミュニケーションの能力が低い人は誰かという問いに、お父さん、お母さんという答えが出てきてしまうのです。

食事は西洋化され、衣服も西洋化され、学校制度や会社組織も西洋化され、社会全体の構造が西洋化されました。もはや共有経験をもってわかり合うことには限界が迫ってきているのではないでしょうか。家族旅行はどれくらいの頻度ですれば、わかり合えるでしょうか。同じテレビ番組で盛り上がれるでしょうか。圧倒的に多くの時間を全く違う場所で過ごさなければならないのです。従来の方法ではわかり合うことができないのが当然でしょう。

コミュニケーションは知性の基本として位置づけられています。コミュニケーションなしの知性はあり得ないと説明されます。そのコミュニケーションが成り立つ土台になる部分は、しかし技術ではありません。能力でもありません。それ故に、知性の基礎だとされているのです。コミュニケーションの土台は「応答」です。

「お〜い」と呼ばれて「は?」と答えるなら、応答が成立する可能性が充分にあるのです。その意味ではここからコミュニケーションになっていくこともあるでしょう。ただほとんどの場合、このコミュニケーションは成立しないだろうと推測できるのです。

応答は指向性を持っています。誰に対しての発信と何に対する返事なのかが対応していなければ応答とは呼べないでしょう。「お〜い」に対して「お茶」の応答には普遍性は見られず、限られた状況に於いてのみ成立します。応答が成立すれば、そこからコミュニケーションを育てることができるといえるでしょう。

いやしの家庭の作り方。たったひとつのポイントを押さえておこう

家庭は家族の一人一人にとって憩いといやしの場というのが理想でしょう。このことを実現するために知っておくべき事実は、人間も動物であるということ。脳科学によれば人間の脳には層構造があって、外側から人間、ほ乳類、は虫類となっており一番奥底にあるは虫類の性質も無意識のうちに保っているというのです。は虫類の典型的行動は人間にも受け継がれているということでもあります。

動物は補職した際、木陰や自分の巣穴等に持ち込んで食事をします。そこでは安全が確保されるからに他なりません。草原で捕獲した獲物を食べてしまう動物などは一部が見張りを分担して、やはり安全を確保するようです。このように安全に食事ができる場所という概念が発達したものが家庭だというわけですね。不思議なことですが、憩いといやしの場である動物にとっての家が人間にとっては理想になってしまったということでしょうか。

これには様々な原因を社会等家庭を取り巻く環境に求めることができます。超過した労働時間、その間さらされ続けるストレス。このストレスにならされた私たちのこころがスイッチを切り替えるために要する時間は相当な長さが必要であると言われます。職場から自宅までの経路を辿る時間でスイッチの切り替えは相当困難な作業になることでしょう。同じことは学校でも、家のまわりの人間関係でも言えることです。

私たちの心は絶え間ないストレスに曝された結果、どんな刺激に対してもストレスを感じるようにすらなってきているのかも知れません。もはや娯楽やエンターテイメントですらストレスを発散することができないことになります。ストレスはつまり外界からの刺激のことですから、悪いストレスと良いストレスとを区別する必要があるのです。幼い子どもは好意を表現するためにいたずらをすることがあるとの報告があります。

つまり好意を表現するために悪いストレスを発信するわけですが、これが幼い子どもに限らない。こう書くといい大人がそんなはずはないと思われるかも知れませんが、このようなコミュニケーションパターンは普通に見られるのです。親しい間にある相手に対したとき、言葉を省略化する傾向がそれです。あといえば……とか、あうんの呼吸を理想とする私たち日本人にはその傾向が強いようなのです。

しかし、私たちが持っているコミュニケーション・パターンは、社会構造が全く異なっていた時代からの相続で、受け継いできたもの、学習した習慣です。ですからそれを変化させることは極めて難しいことだということになるでしょう。それでもコミュニケーションのパターンが問題だということは何も変わらないのです。

お薦めしたいのはたったひとつのポイント。批判しないということ。私たちは批判することに慣れていますが、批判されることには慣れていません。どのように反応すれば良いのか、どのように応答すれば良いのか、批判に対して私たちには正しく学ぶ機会がありませんでした。ですから批判に聞こえると私たちの心の奥で警報が鳴ります。これは自動的に反応します。そして私たちのコミュニケーションは防御姿勢をとるのです。

心理学的テクニックにアサーションという技法がありますが、これさえも批判的印象が先行した状況であれば、聞き手には非難として響きます。それだれ私たちは批判に対して敏感に反応するのです。私たちには批判される機会があまりにも多く、どのように対処すれば良いかわからないからなのです。社会のそのような環境を家庭に持ち込むべきではないでしょう。

「〜すれば良かったのに」という言葉の代わりに「大変だったね」批判的な響きを持たない言葉を交わすこと。家庭から批判を追い出すということがいやしの家庭を作るポイントなのです。

効率に支配されてませんか?家庭では言ってはならないコトバとは

クオリティ・コントロールという生産管理手法が日本に紹介したのはアメリカでした。主に大量生産を行なう工場が生産効率を高めることを目的にした手法です。そのクオリティ・コントロールは日本で導入されるようになり、日本の品質は今や世界トップになりました。アメリカでさえ日本のクオリティ・コントロールを学ぶのが大学での必修になってきているそうです。

効率という言葉に注意が必要です。もう一度繰り返して言いたいほど、注意が必要なのです。それは疑いなく良いことであると思われているからです。効率が良い、というときに悪い評価だと思う人はいないでしょう?そして効率が悪いということは、なす術もなく悪いという評価になっているのではありませんか?つまり私たちの考えの奥底の方で、効率の良いことを求めるようになっているのです。

日々、少しでも安い食材を仕入れておいしい食事を作るってすばらしいことです。でも知らないうちに、その日常に効率が良いことを求めているのではないでしょうか。効率化とは時として省力化として働きます。同じことをするのであれば、少しでも労力が節約できる方が効率的だからです。電子レンジを多用してから、出来合の食品を買うことまで、省力化の行為であれば、その裏側には効率という概念が必ず潜んでいます。

夫が「もう少し〜してくれれば、……。」という相談も少なくありません。「……」のところには「効率が良いのに」という言葉がちょうど良く納まります。妻が「もう少し〜を考えてくれれば、……。」やはり「……」のところには、「効率が良いのに」という言葉の納まりが完璧なのです。私たちの生活はありとあらゆるところで「効率が良い」ことが規範化しているといえるでしょう。

そして誰彼構わず相手を「効率が良いこと」で評価し批判する習慣が身に付いてしまっているということができるように思えます。もっと早くしなさい、と子どもたちに叱咤するとき、効率を問題にしています。隣のご主人の収入を話題にする時、そこでも労働時間に対する収入の割合、つまり「効率の良いこと」を規範として評価して批判していることになります。

「人間だもの」という台詞はとても有名な台詞であって、効率的に生きることができない人間を上手に表現しているのではないでしょうか。結果が思わしくないとき、「人間だもの」。思うように行かないとき、「人間だもの」と一息抜くタイミングが重要です。まず一息抜いてから、どうすれば「マシ」になるかを考えるのです。私たちは自動機械ではないからです。

問題を解決するための自動機械ではないので効率は二の次でよいとしましょう。問題やストレスに直面した時その場にいる皆で、まず一息抜くということが家庭にとって極めて重要なコミュニケーションを作ります。では、そんな人間らしいコミュニケーションのチャンスを水泡に帰す言葉を紹介しましょう。これには数多くありすぎて一気に書き出すことは難しいのですが、例えば……。

「で?」という短い言葉は強烈な爆発力を持っているようです。それまでの会話の流れは関係ありません。一気に沈静化し場を踏みにじることに有効です。「そう」という言葉も同様の破壊力を持っていそうです。これらの言葉の共通していることは、否定です。相手の主張の一部か全部かは問題になりません。ですから、相手の存在を否定しているのです。存在を否定することこそが、コミュニケーションを破壊することのポイントです。

相手の気持ちに焦点を合わせることが思いを通じさせるコミュニケーションです。言葉に隠された否定の力は全体に及んで相手の気持ちを破壊します。それを繰り返すことで、相手はあなたに対して恐怖を抱き、言葉の同じ力を行使するまで後少しです。

お母さんが心がける内緒の功。こうすればお父さんがすくすく育つ

内助の功という言葉があります。土佐の国初代藩主、山内一豊の正妻である見性院が夫を立てて、一国一城の主にまで出世させた立役者として評価する言葉です。そして現在でも良妻のひとつの典型的なタイプとして広く用いられる喩えになっているのです。この内助の功を目指す奥さんは多いのではないでしょうか。その志やよし、といいたいところなのですが……。

家庭が社会の一部として組込まれて機能していた時代は変化して、社会から家庭は自立しようとしている時代になってしまったことを忘れては内助も成立する余地がなくなってしまうのでは?と不安に思われないでしょうか。その不安はいつしか家庭の分裂に発展するという危険もあるのです。これはどの家庭であれ回避できない危険です。そして多くの方がその問題を抱えて相談に来られますが、基本的な部分は置き去りにされているようです。

家庭でのお母さんの役割は子どもを養い育てること。これは人間の動物として備わった本性に関わることです。ですから、同じように社会性に付いて当てはめて考えることはできません。お父さんに対して妻であるということは人間の本性の問題ではなく、社会的な問題だからです。つまり動物としてではなく人間として問われるべきことだということになります。

父親を育てるということ。母親は子を産めばそのまま母親です。このことは調べる限り数千年変化していない事実です。同時に父親は、父親になるのです。これは極めて社会的な事象といわれます。そして自分で勝手に父親になることはできません。これは人間の自己認識に関わるジレンマという難しい問題に属してしまう議論なのですが、人間は育てられて初めて何かになることができる、と理解することができるのです。

つまり父親は誰かに父親として育てられる必要があるのです。そして父親を育てることができるのは、その奥さんである母親以外にはありません。父親を育てるのが母親の役割なのです。だからこそ父親を育てる言葉が大切なことになります。人を育てる言葉、人を何かに育てていくものは言葉だからです。周囲にいる女性の意見を参考にすれば、その言葉は非常に奇妙なもの(マジック)なのです。

このマジックが使えるのと使えないのとでは、雲泥の差が生まれてくるようです。報告によれば、帰宅時間が早くなった、月の飲み代が減ったなどから始まって、頼りがいが出て来た、顔つきが優しくなったなどなど……。どれも喜ばしい変化が数週間から数ヶ月の間に生じているようです。最初は私の所に奥さんがひとりでおいでになっていたのが、ご主人を伴われておいでになるようになったというのが、なによりのことなのでしょう。

「お父さん、〜してくれて助かったわ、ありがとう」。これが公式です。〜の部分に様々な物事を当てはめて使ってみましょう。例えば「お父さん、『洗い物』してくれて助かったわ、ありがとう」と目を見て言うとき、お父さんの(つまり男の)プライドが満たされるのです。小さな取るに足りない日常のことであればあるほど、効果的でしょう。それは物事の大きさより、数が多いことが大切だからです。

月に1度の豪華な食事で生きていける人はいません。毎日コツコツと食べる食事が重要なのは誰でも知っていることです。それと同じように男を父親に育てる、あるいは良き夫に育てることも考えることができるのです。できるだけ小さな目にとまらないようなことに前述の例文と公式を利用してください。子どもたちの前で、二人きりの時に。理由を知っていても知らなくても確実に効果してきます。是非お試しあれ。

【誰でもできる】やっぱりお父さんのリーダーシップは万全なのだ

父権の回復という言葉があります。食卓に父親がどっしり座って新聞等を広げていて、その周囲を家族が取り囲むように着席している。皆は静かに食事をしている……。といった情景を思い浮かべるのではないでしょうか。一昔前に流行ったホーム・ドラムのワンカットを彷彿とさせるこの情景こそが父権のあるべき姿を象徴していると同意される方も少なくないかも知れません。

同時に、あまりにもナンセンスと一笑に付される方もいらっしゃるでしょう。それも確かに同意できる意見であって決して少数派のものであるとは言えないのです。それはなによりも、現実からの乖離が大きすぎることに原因があるのです。現実から掛け離れてしまった父権のイメージ。もはや父権とは古色ゆかしいファンタジーになってしまったのかも。

固定化されたイメージに執着して現実から目を逸らしてしまうと、物語はナンセンスに陥るのです。現実の変化を見据えずに、確立された父権のイメージにこだわってしまっていたのではないでしょうか。最早家族がくつろいで団らんするといった場所も時間も現実社会には存在してはいないのです。現代の生活に適合した父権のイメージを再構築することが必要だったのです。

父親の権利を家族に対して主張してしまうと逆効果を生じます。家族にとっての父親は縮小し出して、あるいは憐れまれてしまうかも知れません。父親の権威と父親の権利は区別されるべきです。父権とは父親の権威であって、父親の権利ではありません。そして権利の主張は弱者の行為なのです。虐げられた者の生存をかけた行為が権利の主張です。私たちはそのことを本能的に理解しているのではないでしょうか。

父親のイメージを再構築しましょう。父親とは社会に対する家庭の総意なのです。それは社会的なステータスなのです。だからこそ会社内での地位なり報酬なりが問題にされることもあるわけです。これは家庭が社会から切り離された存在ではないことを意味します。ここに父権が場所を得るを可能にするイメージがあるのです。

学校のPTA会に出席して帰って来たお母さんの話を聞くとき、子どもが学校から帰ってきたとき、まず姿勢を正して両手の掌を上に向けた状態で両膝の上に置いてゆったりと座ります。そしてお母さんや子どもに正面に迎えましょう。リラックスが肝腎です。眉間にシワがよっているのは緊張を表しているので要注意。そしてこれだけのことです。これが第一歩。子どもの話を聞きたいと思った時には、これと同じ姿勢をとります。

家族は気づかず目の前を通り過ぎてしまうかも知れません。ほとんどの場合そのはずです。そこで慌てず、騒がず同じことを繰り返すのです。この姿勢はラポートとかラポールと呼ばれる信頼関係を誘うために無意識に語りかける非言語(ノンバーバル)の言語です。だからすぐに気づかれることがないのです。しかし、無意識に語りかけられると人間は抵抗することができません。

「お父さん、どうしたの?」等と声をかけてくれば、しめたものノンバーバル・アプローチが効果している証拠なのです。ゆったりと聞き返します。「今日の学校はどうだった?」とか「上手くいったの?」などという相手の言葉を誘うようにすると会話が始まるはずです。このようにラポールを確率した上での会話は、ひと味違ったものになるはずです。

後は語られる内容をできるだけ、そのままに繰り返してお母さんや子どもたちの語りの気持ちを言葉で表現しなおしてあげることで、相手に話を聞いているということを伝えることができます。聞き手にとっては取るに足りないことかも知れません。しかし、評価は禁物です。ただ、感情を拾って言葉で拾ってあげるようにしましょう。この会話の積上げが父親の権威の基礎になるのです。

【衝撃】価値観が一緒、頼りになる?…でも最後は性格の不一致?

毎日のように報道されている芸能人同士の婚約、結婚インタビューなどの記者会見を見ていると、口裏を合わせたかのように主張されているひとつのことに気が付きます。彼らが結婚に至る動機の一番の要因は、価値観の一致だということらしい、ということです。そして一様にとても幸せそうな表情をして頷き合っています。このことに問題を感じる人はいないでしょう。

かつての日本の結婚観は家の結婚と呼ばれています。この結婚はいわく、家同士の利害関係に基づくものであって不純であるとか言われ、あたかも未開地のそれであるかのように扱われるようになったのではないでしょうか。結婚は両人の合意のみに基づくと法律に規定されており、結婚相手を選ぶことは個人に認められた基本的人権の行使であると広く認められるようにもなりました。

確かに、結婚が個人の意思に基づくのであれば、相手を選ぶ時に価値観が一致しているということは重要な要件になりそうです。価値観が異なっている人同士が結婚するとすれば、恐らく周囲の人たちは明確に反対するように思います。しかし、これらの主張はひとつの事実を無視していることを指摘しなければならないのです。それは離婚に至ってしまったカップルのほとんどは性格の不一致を原因に挙げるということです。

価値観が一致していたはずのカップルが性格の不一致で離婚する、ということが事実としてあるということを無視するわけにはいかないはずなのです。そのように価値観の一致が性格の不一致で破局に至るという一連の流れを私たち社会は意図的に無視しているか、またはそのような人たちは例外的な存在であるかのように考えているのではないでしょうか。しかし、人間の能力にそれほどの差があると思っていて許されるのでしょうか。

日常的に使用する範囲で言葉が通用し破綻しなければ、言葉は一定の機能を果たしていると考えられるとは言語学者の見解です。そうであるならば、生活が破綻している、破綻に至るという現実と真摯に向かい合う時、既に言葉が一定の機能を果たしてはいないのではないだろうか。という疑問を感じなければならないでしょう。そしてそのような疑問の上に、初めて解決の道が示されるのです。

一定の期間保持された行動のパターンを文化と呼びます。そして価値観という言葉は文化の上に成立します。つまり文化が異なれば、その上で形成される価値観は異なるということになります。この場合、価値観が似ているとか似ていないとかいう考え方は成立しないのです。なぜなら価値観の似ている要素の数と違っている要素の数とは必ず同じだからです。

文化の違いと類似の数は同じです。つまり違いと類似は数を比較できません。これは文化人類学の結論なのです。学問的な研究成果を無視しては虚しい議論と結果を招いても道理だと言えるでしょう。結局は結婚とは違った文化と価値観の上での決心・決定だということなのです。このことを前提としているかいないかは天地の開きを表すことになるでしょう。

全くことなった場所に育った男女が全く異なった文化に育つのは当然のことです。だからこそ異なった男女の出会いこそロマンなのです。文化の違いと価値観のズレを前提にするからこそのロマンだということもできるのではないでしょうか。これらの違いがあるからこそ、私たちはまったく新しい意味を日々発見することができるのです。

違った文化・価値観の具体的なイメージを持つことです。海外旅行をすれば容易に体験できます。そこに住んでいる人たちは全く異なった文化に生きているのであり、全く違う価値観を持っているからです。そうすれば何が一番必要かは誰にでも理解できるでしょう。身振り手振りを含めて、態度も表情も含めて、人間としての言葉であることは自明です。

一人ご飯では生きていけない。お父さんが元気になるためのヒミツ

知り合いからの相談はすでに破局を迎えてからのものでした。せめてもう少し早く相談をしてくれれば、せめてもう少し、アドヴァイスに耳を傾けてくれていればという思いでいっぱいになりました。相談をしてくださったのは中年にかかろうかという女性でした。単身赴任を続けていたご主人が浮気をされていたので離婚を決意したということだったのです。

単身赴任……。現代において決して珍しくない生活パターンでしょう。誰でもが経験しうる状況です。仕事を選べるのであればまだしも、会社の命令に従うための調整を精一杯した結果の単身赴任に違いありません。子どもたちの教育や生活費の負担、その他の社会生活の維持を考えれば他には選択がなかったのかも知れません。そのような状況を誰も責めることはできないはずです。

それは既に家族として、クライシスのひとつとして理解されているのでしょうか。この質問に関して否定的な答えしかないかも知れません。私の友人はこのような状況に対して、「男は本当に仕方がない……」と投げやりなことを言います。しかし、単身赴任という状況の責任をすべて押し付けてしまうような無責任な立場をとっているのは家族として相応しいことでもないでしょう。

東洋医学の考え方では人間は食事によって生きるとみなしません。食事による精によって初めて食事が栄養になり、身体を養えると教えているのです。夜遅く帰宅して、電子レンジで加熱した食事を薄暗い灯りの下で食べるというのであれば、そこには食べ物があっても精があるとはいわないのです。それは空腹を満たすだけの物質であって生命を養い育てるような精がないと言えます。

古来より人間の食事は動物のそれとは違うものであると認識されてきました。これは東洋と西洋とで共通した考え方であるかも知れません。人間はパンのみに生きるのではないということばは誰しも知っているのではないでしょうか。聖書ではこのことばに「神の口から出たひとつひとつの言葉による」と続きます。本来、人間は食事による精を取り込むことで初めて、生命を養い育てることができるのです。

しかし現代的生活に於いて「精」という東洋医学的な言葉は耳に馴染まなくなってしまいました。しかし、この「精」というものが不要になったのではなく、言葉が失われただけなのです。その証左として誰しも体験することはできますし、体験しているはずなのです。お母さんたちはお友達と楽しい食事を求められるでしょうし、お父さんたちも職場の気の合う仲間同士で飲み会という選択をするのではありませんか?

気のおけない仲間との食事。何よりも楽しい食事。これこそが精の伴う食事だということができます。そのような食事なら、同じ料理であってもはるかに美味しく感じることができるということがおわかり頂けると思うのです。「精」は食事の時・場所の雰囲気だと言い換えることもできるかも知れません。東洋医学の専門家はもっとわかりやすい言葉を当てています。「味わい」だと。

家庭での食事も同様です。豪華で立派な食卓によって私たちは養われるのではありません。食卓の雰囲気、「精」によって初めて活力が生まれるのだということなのです。さらに突き詰めてみれば食卓の雰囲気は、誰と食べるのかに還元されることだと言えます。誰と食卓を囲むかが食卓の雰囲気を演出するのであり、食事の味わいを決定しているのだということなのです。

今日は誰と食卓を囲みますか?その食事は楽しいものですか?この質問を自分自身に投げかけることで家族と一緒の食事ができないことへの痛みを思い出せるのではありませんか。家族とともにする食事こそ、家庭における生命の交歓の時と場所なのです。一人の食事では生命は養い育てることができません。

たったの4項目!こころ休まる家庭を作るためのチェックリスト

こころ休まる家庭とは安全・安心を約束できる家庭だと定義できると思います。そのようなことを改めて言う必要があるということが、そもそも現代の家庭には問題があるということだと思うのです。

もはやどうしようもないという結論に至ってしまってからの相談をされる方が少なくありません。もちろん、それでも相談されないよりは遥かにましなのですが、それでももう少し早く相談をして下さって頂ければ違ったアドヴァイスをすることもできたのにと思わされてしまいます。これは、家族の誰かが抜き差しならない状況にならなければ、事態を理解することができないということなのでしょう。

簡単なチェックで家庭内における家族の問題がないか、あるいは家庭の安全・安心が脅かされている状態なのかを判断することができます。家族の間に拒絶、役割の放棄、孤立、論争や対立などといった目立った症状が出て来てからでは対処するコストは跳ね上がってしまいます。是非、次のチェックリストを確認してみて頂きたいと思うのです。

1. 朝と夜のあいさつはしてる?
あいさつは単なる言葉ではありません。どの国の言葉でも、どんな文化であっても必ずあいさつに相当することばがあります。そしてあいさつを互いに掛け合うのです。そしてあいさつが持つ大切な役割は、相手を傷つける意図がないことを明確に伝えることだと言われています。安全・安心を確認することはこころ休まる家庭の必須条件であり、これをことばのレベルで行なう習慣なのです。

2. 週に1度は家族で食卓を囲んでいますか?
共に食事をするということは生活の共有を意味する本質的行為です。親しい友人と食事、あるいは職場の仲間と食事をする場合を考えてみればわかりやすいでしょう。一緒に食事ができない人を仲間として認識することは難しいことがよくわかるはずです。つまり食事とは動物的な本能に基づく重要な生命維持の活動であってそれが生活習慣として共同することと直接結びついていることなのです。

3. 子どもは居間で家族とくつろいでいますか?
かつての日本住宅とは変わってしまい、個人スペースが確保されるようになりました。それ自体は悪いことではないのですが、個人スペースが孤立のために用いられるようになるのは大きな問題を孕むでしょう。家族で過ごす時間は基本を共有スペースに求めることが本来は安全なはずなのです。それなのに、子どもが居間での過ごす時間を減らすということは、何らかの危険を感じていることを意味します。

4. 自宅に子どもの友達は遊びに来ていますか?
子どもにも学校・学校外の交流という社会があります。そして家庭は子どもたちにとっての社会生活を安全に確保する拠点という意味もあるのです。ですから子どもにとっての社会への窓口として家庭が機能する必要があるのではないでしょうか。子どもにとっての社会が、家庭から遠のくのは危険なことなのです。恐らくはそのような状態に対して、家族の誰しもが不安を覚えるはずなのです。

これらの質問は言語レベル、生活レベル、個人レベルそして社会レベルで発信される意識下の信号を把握するためのものです。それぞれのレベルでの安全・安心を脅かす要因を感じたとき、私たち人間は通常の健全なコミュニケーションを維持することができなくなることを知っていなければならないでしょう。つまり安全ではないと思っている状況で単にコミュニケーションを求めてもそれは困難な要求が増えるだけなのです。

これら4つの質問に問題なく「はい」と答えられているのならば問題は生じていないと思われます。しかし、ほとんどの場合、これらの4つのチェックで何らかの問題が潜んでいることが理解できるはずです。